【日韓国交50年】田中角栄と「ナッツ姫」祖父が残した日韓政治の闇(上)


軍事政権の手を逃れて日本に滞在中だった民主化の指導者、金大中を韓国中央情報部(KCIA)が白昼に拉致。違法に国外に連れ出したこの事件は、「日本に対する重大な主権侵害」に当たるとして轟々たる非難を呼んだ。

しかし、日韓国交正常化(1965年)による巨額のジャパンマネーの韓国流入を受け、両国間に巨大な開発利権が渦巻いていた時代である。経済的利益を優先したい政財界の首脳らは“手打ち”を急ぎ、韓国側の「密使」として趙重勲に白羽の矢が立ったのである。

それにしてもなぜ、趙重勲だったのか。それは彼が率いる財閥の“育ての親”が、小佐野賢治だったからに他ならない。

日本人から信頼

趙重勲は1920年2月、韓国・仁川(インチョン)に生まれた。18歳で海員養成所の機関課を卒業し、神戸の造船所での見習工を経て故郷でエンジンの修理工場の経営などに当たった。1945年に第2次大戦が終わり、朝鮮半島が日本から解放されると韓進商事を設立。トラック1台の運送会社で、社長自らハンドルを握った。趙一族を知る在日大韓民国民団の関係者が言う。

「当時の運送屋は荷馬車が主体で、トラックは珍しかったそうです。彼はその車でソウルと仁川港の間を1日に何往復もして、半島から内地へ引き揚げる日本人の家財道具を運んだ。非常に手際がよく、当時から日本人の信頼は厚かったようです」