【日韓国交50年】田中角栄と「ナッツ姫」祖父が残した日韓政治の闇(下)


国交正常化にともなうジャパンマネーの韓国流入を受け、ソウル地下鉄開発などの大型事業を岸信介元首相らが主導する一方、小佐野―趙重勲ラインは運輸・観光分野でのビジネスで潤って行く。

当時の韓国経済において、外貨獲得に有利な観光事業は基幹産業のひとつに位置付けられていた。大韓航空を擁する韓進グループは、財閥ランキングで三星(サムスン)、楽喜(後のLG)に続く3位にあったが、外貨獲得力では他を圧倒していたとされる。

たとえば、韓進が5年間のベトナム特需で稼ぎだした外貨は1億5000万ドルに上った。この頃、韓国国民の1人当たり年間所得が200ドル前後であったことを考えると、韓進の存在がいかに大きかったかがわかる。

「政治決着」の密命

そして、外貨に対するこうした「強さ」こそが、趙重勲が日韓政治になくてはならないキーマンとなった所以だった。

趙重勲は日韓国交正常化前の1964年7月、東京に飛ぶ。財政がひっ迫し、ジャパンマネーを待ちきれない朴正熙(パク・チョンヒ)政権のたっての依頼を受け、2000万ドルの借款を前倒しで引き出すためだった。小佐野ラインを通じ、首尾よく田中角栄蔵相の説得に成功した趙重勲は、その後も同様の仕事を見事にこなした。

朴正熙からの絶大な信頼を得た趙重勲は1973年8月15日、青瓦台(大統領官邸)に緊急の呼び出しを受ける。拉致された金大中がソウルの自宅前で発見された2日後のことだ。