このとき彼が攻撃の対象となったのは、かつて明友会に所属していたからにほかならない(本人は在日出身であることを否定していたのだが)。
明友会は1953年ごろ、大阪・鶴橋駅の高架下にあった国際マーケットを根城に、在日の若者を主体に結成された新興愚連隊で、間もなくミナミにも進出。急速に勢力を伸ばし、構成員1千人を豪語するほどだった。当時、ミナミには「三国人」への対抗を掲げた南道会などの既存勢力があったが、明友会に押される形勢だったという。
ところが1960年8月、山口組との抗争がぼっ発するや、明友会はたった2週間で壊滅してしまった。
両者の差は、組織力にあったとされる。日本の社会に根差した歴史あるヤクザ組織に、差別や貧困に対する刹那的な激情を共有しただけの愚連隊はかなわなかったのだ。
経済ヤクザの系譜
出世した在日ヤクザは単なる暴れん坊ではなく、計算にも長けていたのだ。