清原和博被告の覚醒剤はどこから来たのか? 対日シャブ密輸ルートの源流をたどる


もっとも、汚職体質や権威主義のひどさで言うなら、両政権とも五十歩百歩だった。ただ、1980年の光州事件で民主化を求める学生らを虐殺し、クーデターで権力を握った全斗煥は海外からの凄まじい批判にさらされていた。体制の正当性確立を迫られ、とりわけ日本との経済関係強化を国策として掲げていた全斗煥政権が、前政権の遺物である「覚せい剤利権」を放置するはずもなかった。

韓国情報機関と在日ヤクザの関係も微妙に変化していく。韓国国内の民主化の進展によって、軍事政権時代のつながりが「負の遺産」とみなされるようになったのだ。

大蔵省(現財務省)の関税局監視課が1991年にまとめた「麻薬・覚せい剤等不正薬物(「白い粉」)の密輸入事犯の動向」によると、日本に持ち込まれ、押収された覚せい剤の量は、1986年に台湾からのものが韓国を抜き、トップに躍り出ている。

民主化で根絶を

その後も1989年を除いて台湾からのものが大半を占めており、覚せい剤密輸の主要ルートは韓国から台湾へ移行する形となった。